2011年9月6日火曜日

書導師として。〔今読むと恥ずかしいシリーズ:2018/03/16〕

夏が終わり、季節は秋。

だいたいにして、誕生日の前後一ヶ月ちょっとは、
何らかの変化を、僕は求めます。

今年で言えば、五年以上住んだ横浜から離れ、
札幌に落ち着こうと考え、往復を重ねています。

しがらみが無かったといえば嘘になるけれど、
若かりし頃抱いていた関東平野への憧れは、
時間と共に薄れ、どこにいても自分は自分でしかないということが身に沁みて、
さらには、どこか縁のある土地ならばどこでもいいと、
札幌以外の場所を探して歩いていたのですが、
結局はどこよりも地縁が深かったのは、生まれた場所であったと、
札幌に滞在してからの日々を振り返っています。

SNSを含めて、ブログを書くようになってから10年が経とうとしています。

本当のところ、僕は機械にもっぱら弱く、
必要以上のことは覚えようとしないので、
使いこなすことがなかなかできず、
機械の中で人と知り合って、つながりを持つということに、
一抹の不安や、抵抗感のようなものを感じていました。

けれども、僕はこんな風に最近思うようになりました。

結局は、人間が作り出した設備であるのだから、
不幸になるための道具ではそもそもないはずだ、と。

神は、わざわざ人を不幸にするような、
技術や才能は叡智として与えないのだと思っています。

僕は、書を生きがいとしています。

先生と呼ばれることもありますが、
教室を持って教えているわけではないし、
今後も弟子を取る気にはならないと今は思います。

ただ、僕は書という技術によって、命も人生も救われました。

だから、書によって導かれた者。として、書導師と冠しています。

それほどまでに、
僕は路頭に迷いながら歩いてきてしまいました。

人は、旅を続けるものだといいます。

誰かと出会った場所が、腰を下ろすべき場所で、
誰かとの別れが、旅立つべき時なのかもしれません。

それでもたどり着くべき場所へ導いてくれるのが、
自分だけが知りうる、決定的な説得力を持つ、
それぞれが信じる何かなのでしょう。



「玉」を用いて、「見」るということからこの字は作られ、
仏教の経典では多く見られます。

頭の中で描いていることも、
霊や魂の存在も、人の心も、
なかなか手ごたえとして感じることが難しいのは、
今も昔も変わりません。

この字は、言うなれば、
「知りたい。だから、あらわれよ!」
という意味合いなのでしょう。

現代の場合は、
「知って欲しい。だから、あらわす!」

これが、この時代のこの世界における、
「現」に占める大きな意味かもしれませんね。