だいたいにして、誕生日の前後一ヶ月ちょっとは、
何らかの変化を、僕は求めます。
今年で言えば、五年以上住んだ横浜から離れ、
札幌に落ち着こうと考え、往復を重ねています。
しがらみが無かったといえば嘘になるけれど、
若かりし頃抱いていた関東平野への憧れは、
時間と共に薄れ、どこにいても自分は自分でしかないということが身に沁みて、
さらには、どこか縁のある土地ならばどこでもいいと、
札幌以外の場所を探して歩いていたのですが、
結局はどこよりも地縁が深かったのは、生まれた場所であったと、
札幌に滞在してからの日々を振り返っています。
SNSを含めて、ブログを書くようになってから10年が経とうとしています。
本当のところ、僕は機械にもっぱら弱く、
必要以上のことは覚えようとしないので、
使いこなすことがなかなかできず、
機械の中で人と知り合って、つながりを持つということに、
一抹の不安や、抵抗感のようなものを感じていました。
けれども、僕はこんな風に最近思うようになりました。
結局は、人間が作り出した設備であるのだから、
不幸になるための道具ではそもそもないはずだ、と。
神は、わざわざ人を不幸にするような、
技術や才能は叡智として与えないのだと思っています。
僕は、書を生きがいとしています。
先生と呼ばれることもありますが、
教室を持って教えているわけではないし、
今後も弟子を取る気にはならないと今は思います。
ただ、僕は書という技術によって、命も人生も救われました。
だから、書によって導かれた者。として、書導師と冠しています。
それほどまでに、
僕は路頭に迷いながら歩いてきてしまいました。
人は、旅を続けるものだといいます。
誰かと出会った場所が、腰を下ろすべき場所で、
誰かとの別れが、旅立つべき時なのかもしれません。
それでもたどり着くべき場所へ導いてくれるのが、
自分だけが知りうる、決定的な説得力を持つ、
それぞれが信じる何かなのでしょう。
「玉」を用いて、「見」るということからこの字は作られ、
仏教の経典では多く見られます。
頭の中で描いていることも、
霊や魂の存在も、人の心も、
なかなか手ごたえとして感じることが難しいのは、
今も昔も変わりません。
この字は、言うなれば、
「知りたい。だから、あらわれよ!」
という意味合いなのでしょう。
現代の場合は、
「知って欲しい。だから、あらわす!」
これが、この時代のこの世界における、
「現」に占める大きな意味かもしれませんね。
