とても長い旅だったように感じるのは、
僕のやるべきこと、すなわち「描くこと」が、
メインにあった初めての旅であったからでしょうか。
旅の多くの趣旨は、おそらくは人に出会うためなのではないかと、
僕は思っています。
僕のフェイスブックには、
この20年間あちこちをうろうろしていて、
声をかけてくださった人たちが、今はほとんどです。
なので、人数も少ないですが、
それぞれに深い時間を共にさせていただいた方々。
その当時は、本当にやるべきこともわからずに、
たださまよっていただけの自分でしたから、
未熟さに輪をかけて、根拠のない自信に満ちてもいたし、
どこで身に付けたのかもわからないような、
変な癖も備えていたように、今の僕は思い起こします。
変化を、人は成長であるとか、悟りであるとかいいますが、
僕のケースだと、死ぬまで変化を伴ってこそ僕だと思っています。
変わらないことに強い憧れを抱いてはいるものの、
変わらないことは、変わり続けることよりも難しい。
何かを心の芯に据えおき、じっとしているでもなく、
考えないでもなく、考えすぎるでもなく、
時に、これでいいのかという迷いも生まれます。
いわゆる中庸という状態はこの世に生きている限り、
本当に実現できるのであろうか。
悩みます。
これこそが、修行なのかもしれません。
時間の深さにかかわらず、変わらぬお付き合いをして下さる方々のほとんどは、
本当に芯のぶれていない人々だから、僕は、たまに気恥しくなることがあります。
1週間ほど前、
僕は、渋谷の金王八幡宮で行われた「大和魂まつり」に参加させてもらいました。
主催者は、浅野徳一さんといって、備前焼を扱うお仕事をされています。
去年の7月、渋谷の某飲食店で個展を開催させていただいた折りに、
初めてお会いし、酒を酌み交わし、初対面にもかかわらず、
いろんな価値観をぶちまけたのを思い出します。
彼が抱いていた目的に、僕は最初共感することができなかったのですが、
眼差しと、信念というか気魄に圧倒され、ずるずると巻き込まれて見ることにしました。
このとき、たまたま義理の弟が友達を連れて、会場に居合わせ、
話が面白くなってゆき、僕も義兄としていいカッコをしたいと考えたことも、
また、時の縁が作った事実であることを記しておきたいと思います。
アーティストの全てが能動的であるとは限らなくって、
求められるからこそ、自分の思う以上の能力を発揮できる人もいます。
なぜかというと、代弁することが創作の原動力をもたらしてくれるからで、
僕はどちらかというと、そういうタイプです。
彼とは今年、一年ぶりにまた再会し、変わらぬ情熱に安心したのか、
昨年よりもいいものを創れたように今年の僕は思っています。
「魂」と描かせていただきました。
無論、大和魂の魂なのですが、
僕の中では「魂魄」を表現しています。
神を介在してそこに集い、何かを崇め何かを祈る人々の心に宿る「魂」と、
日本を愛し、愛するが故に憂い、何らかの行動を起こす人々の体を動かす元となる「魄」。
「魂魄一体」
と僕は表現しますが、どちらが欠けても個人は成り立たない。
自分で導き出すのか。
それとも、
誰かにエネルギーを与えてもらうのか。
どちらにしても、生きることとは、自分以外の人間との、
情熱の源泉のぶつかり合いが、やがて強い絆を生み出すのではないかと、
そんなことを彼からまた学んだ夏の終わりでした。
