2011年9月25日日曜日

魂魄一体。

旅から帰ってきました。
とても長い旅だったように感じるのは、
僕のやるべきこと、すなわち「描くこと」が、
メインにあった初めての旅であったからでしょうか。

旅の多くの趣旨は、おそらくは人に出会うためなのではないかと、
僕は思っています。

僕のフェイスブックには、
この20年間あちこちをうろうろしていて、
声をかけてくださった人たちが、今はほとんどです。
なので、人数も少ないですが、
それぞれに深い時間を共にさせていただいた方々。

その当時は、本当にやるべきこともわからずに、
たださまよっていただけの自分でしたから、
未熟さに輪をかけて、根拠のない自信に満ちてもいたし、
どこで身に付けたのかもわからないような、
変な癖も備えていたように、今の僕は思い起こします。

変化を、人は成長であるとか、悟りであるとかいいますが、
僕のケースだと、死ぬまで変化を伴ってこそ僕だと思っています。
変わらないことに強い憧れを抱いてはいるものの、
変わらないことは、変わり続けることよりも難しい。

何かを心の芯に据えおき、じっとしているでもなく、
考えないでもなく、考えすぎるでもなく、
時に、これでいいのかという迷いも生まれます。

いわゆる中庸という状態はこの世に生きている限り、
本当に実現できるのであろうか。

悩みます。

これこそが、修行なのかもしれません。

時間の深さにかかわらず、変わらぬお付き合いをして下さる方々のほとんどは、
本当に芯のぶれていない人々だから、僕は、たまに気恥しくなることがあります。


1週間ほど前、
僕は、渋谷の金王八幡宮で行われた「大和魂まつり」に参加させてもらいました。

主催者は、浅野徳一さんといって、備前焼を扱うお仕事をされています。
去年の7月、渋谷の某飲食店で個展を開催させていただいた折りに、
初めてお会いし、酒を酌み交わし、初対面にもかかわらず、
いろんな価値観をぶちまけたのを思い出します。

彼が抱いていた目的に、僕は最初共感することができなかったのですが、
眼差しと、信念というか気魄に圧倒され、ずるずると巻き込まれて見ることにしました。
このとき、たまたま義理の弟が友達を連れて、会場に居合わせ、
話が面白くなってゆき、僕も義兄としていいカッコをしたいと考えたことも、
また、時の縁が作った事実であることを記しておきたいと思います。

アーティストの全てが能動的であるとは限らなくって、
求められるからこそ、自分の思う以上の能力を発揮できる人もいます。
なぜかというと、代弁することが創作の原動力をもたらしてくれるからで、
僕はどちらかというと、そういうタイプです。

彼とは今年、一年ぶりにまた再会し、変わらぬ情熱に安心したのか、
昨年よりもいいものを創れたように今年の僕は思っています。






「魂」と描かせていただきました。


無論、大和魂の魂なのですが、
僕の中では「魂魄」を表現しています。

神を介在してそこに集い、何かを崇め何かを祈る人々の心に宿る「魂」と、
日本を愛し、愛するが故に憂い、何らかの行動を起こす人々の体を動かす元となる「魄」。

「魂魄一体」
と僕は表現しますが、どちらが欠けても個人は成り立たない。
自分で導き出すのか。
それとも、
誰かにエネルギーを与えてもらうのか。

どちらにしても、生きることとは、自分以外の人間との、
情熱の源泉のぶつかり合いが、やがて強い絆を生み出すのではないかと、
そんなことを彼からまた学んだ夏の終わりでした。