「おもい」という日本語を漢字で探すと、
実に、34種類の漢字を見つけ出すことができます。
この全てが、人間の思考を指すのですが、
「おもいかた」によって、様々な使い方がなされています。
日本語独特の解釈が拡大したものもきっとあるとは思うけれど、
代表的な例は、
これ。
「思」
元は心、そのまま心臓で、その上に田ではなく、
頭(頭蓋)を表す凶に似た字です。
なので、心もちではなく、「場所」即ち、
考える場所の頭そのものを示しました。
頭=深く考える働きをする場所。
頭と書いては、その部位を表してしまうので、
働きを表現するために、
「思」という漢字が生まれたと考えられています。
だから、中国の文献では、思を「ここ」と読むものがあります。
なので、ぼーっとどこで何を考えているのかわからない。
放心に近い状態で、あまり対象がはっきりしていない。
「こころ、ここにあらず。」
ということと捉えてもいいかもしれません。
一方、
主には人を慕う意味が大きい漢字は、こちら。
心には形がないから、それをなんとか具体化しようと、
おもいをめぐらせているのですね。
心の上の「相」は、みる、みさだめる意味だから、
「みたい」と念じているのでしょう。
そこには、五感の全てと、
何か得体の知れない感覚から漂ってくる手がかりを、
必死に掌に収めようとする、そんな様子を匂わせています。
「みたい」「たしかめたい」の「たい」も、
「おもう」となり、この字も、「おもう」と読みます。
「念」
ただし、この字は心の動きとは全く関係がない成り立ちです。
「今」は「きん」と読むことで、字のスタイルから、
読み方「ねん」へと転用されたのだそうです。
この字は、心に深くおもう、おもいをこめる。という意味。
なぜ、人は「おもう」のか。
これは壮大なテーマですね。
まずは、迷いが元になっている生き物だからではないでしょうか。
「おもい」の発生は、緻密な計測をすれば、
細かい数値で測ることができるかも知れないのですが、
意識の出発と、
意識を理解するという作業はそれほど同期してはいないから、
本当はバラバラに一つずつ発生しているのに、
ヨーイドンですべてがスタートしているように感じるだけなのかもしれません。
ここで、思いつきと、閃きとが大きく分かれることになっていて、
行動というひとまずの通過点へ、
最短距離で向かおうとする人にとっての選択肢は、
数限りないと言ってもいいのですが、
これはとても酷なことになることもあります。
本当に必要なことがこの時点でそろっている人には、
距離は長くてもその人にとっては、そんなに長く感じてはいなくて、
しかも、絶対になにがあっても、
「そこにたどり着く。」という決意と覚悟が根底に備わっています。
しかも、その所作も嫉妬をおぼえるほど、軽やかに。
鍛錬、修練とはその「持ってき方」で、
その結果、前者には癖となり、くりかえし苦しめられ、
後者はコツとなって、さらに、強運という追い風が吹き続けるのでしょう。
だから、迷いは、魔にもなれば、仏にもなります。
それは、迷いを生じさせるこの心の主人である、自分しだいなのだ。
そんな風に考えます。
迷い自体に苦しみがあるのではなく、
本当は、その解決に向けた行動に苦しみが生まれます。
思考の摩擦と言ってもいいでかもしれません。
だから、もっとも手際よく、傷つかない方法を本能だけで探りあて、
混乱から自分を誰よりも早く救出させたいと願うのでしょう。
人間のすべては、
この混乱から解放されるために迷い、生き、
死んでゆくのかも知れません。
みんな、いろいろ抱えています。
互いに相手をおもうこと。
それが、この文字には刻まれています。
